73年前に7歳だった私の記憶。沖縄から、伝えなければならないこと

“ 今まで身内にも詳しく話したことはなかったのよ。話せなかったの ”

バスを降りる時に文子さん(仮名)は呟きました。この摩文仁に足を運ぶことも苦痛でありながら、昨年お姉さんが亡くなり、自分もいつ最後になるかわからないと意を決して、平和祈念公園行きのバスに乗ったということでした。

6月23日、慰霊の日の朝のことです。那覇の沖縄県庁から出発するシャトルバスは平和の礎や戦没者追悼式に向かう人々ですぐに満員になりました。窓側に座る私の横に“ここ、いいですか?”と礼服姿の文子さんが掛けられました。亡くなったお姉さんが遺族会に入っていたという話からでしょうか。文子さんは7歳の頃に経験された沖縄地上戦の記憶を語ってくれました。約1時間のバスの中、そして当時自宅のあった首里から南へ南へと逃げたその同じ方向へ向かいながら。

 

文子さんはお母さんと近所の方たちと共に、戦火を逃れるため歩き続けました。沖縄には身を隠すことが出来る自然壕(ガマ)がありますが、どこも人でいっぱいでした。南風原(はえばる)でやっと見つけた無人のガマには鍋などがあり、直前までいた人が逃げ出した後のようでしたが、しばらくはそこで休むことが出来ました。けれどある時そこにトラックに乗った日本の軍人がやって来たのです。
“負傷兵がいて手当てをする場所が必要だから、君たちは出て行きなさい”
お母さんたちは、懇願しました。
“米軍は夜間は攻撃して来ません、せめて夜まで待ってください”
日本兵はそれを受け入れず、文子さんたちを追い出してしまいます。少し行ったところで、壕の外に駐まるトラックを空から見つけた米軍機がその場所を爆撃しました。その攻撃により、文子さんの目の前でお母さんが亡くなりました。そして壕の入り口はひどく破壊され、中の日本兵もおそらく亡くなったのではないかと記憶されていました。
米軍上陸より前、文子さん親子は船で疎開することが決まっていました。しかしその前に対馬丸の事件があって、海の真ん中で死んでしまうなら慣れた土地で死ぬ方がいいと渡航を取りやめたそうです。もし疎開していたら・・文子さんはそのことを考え続けていました。

お母さんを失った小さな文子さんは、ともに逃げてきた方達とその先も南へ逃げ続けます。その足には爆撃による傷を負っていました。そうして米須(こめす)という場所で、ひとりの日本兵に出会いました。衛生兵です。彼は残っている薬などを使って応急処置をするよう文子さんに指示。言われた通りに自分の足を手当てした文子さんでしたが、幼い感覚ではわからなかったけれど、彼自身も足に重い傷を負っていて動けなかったのです。仲間の兵隊が彼を置いて立ち去ってしまったあとでした。彼は自分の食糧の缶詰や薬を文子さんのリュックに入れて持たせました。そして残してきた家族である、奥さんと娘さんの写真を見せてくれたそうです。
“君と同じくらいの歳だね”

ある時気づくと、彼は動かなくなっていました。何度も声をかける文子さんに、周囲の大人がその人はもう亡くなっているよと伝えたといいます。

その後米軍の捕虜となり知念の収容所での生活が始まるのですが、同じように手足に傷を負った人たちの多くが膿んでしまい切断を余儀なくされた中、応急処置を施していた文子さんは障害が残ったものの切断は免れました。
“亡くなったその方から写真を預かり、ご家族を探してその最期のお話を伝えられれば良かったのに、その時は思いつけなかったの”
混乱の中、小さな子供ができるはずもないことなのに、ご自身を責めてしまうのです。生き残った人たちはそういう思いを抱えて生きているのだと教えられました。

追悼式の中で中学3年生の女の子が「生きる」という自作の詩を読み上げました。誰が壇上に立とうとも落ち着いた様子でその話を聞いていた文子さんの瞳から、その時だけ涙がこぼれていました。

文子さんと別れ、ひめゆりの塔の方面にしばらく歩いた交差点の表示に「米須」という地名を見つけました。この場所で失われたひとつの命を、私はこの日知りました。日本の悲しい歴史としてでなく、たった73年前に今いるこの場所で消えた鼓動、体温をただ思い、目を閉じました。

注)写真に写る方は、お話を伺った文子さんとは無関係です。

* * * * *
「沖縄から、伝えたいこと」は、石垣島に半年間生活の場を移したTWFFの蔵原実花子が見聞きし、感じた「沖縄」を発信していくシリーズです。どうぞよろしくお願いいたします。